昭和41年01月13日 朝の御理解
「人も良けれ、我も良けれ、人より我はなお良けれ」と、教祖の神様は、そのような御理解を下さったわけですね「人も良けれ、我も良けれ、人より我はなお良けれ」と「というが、神信心も、先ず我が身におかげを受けて、そして後人を助けてやれ」と。「人はどうでもいい、私だけ助かれば」という意味ではないと思うですね。人も良けれ 我も良けれと言うけれども、それよりも先ず自分が良けれと、自分がまず助からなければならない。神信心も、先ず我が身におかげを受けてそして後に人を助けてやれと。
「自分がおかげを受けてきたことを、人に実意丁寧に伝えていくのが、神へのお礼ぞ」とおっしゃる、「それが神になるのぞ」とまで仰っておられます、「人一人助ければ、一人の神」とも仰る、ね。十人助ければ十人の神ということにもなるわけなんですね。けれども、どちらに致しましても、まず自分自身が助からなければならない。 昨夜の御理解に、助かるということ、助けるということ、救われるということ、救うということ、について、難しゅう頂いたんですけれども、神様が助けたいと仰る。
私共が助かりたいと思う。ところがなら実際なら、私共が助かっておるかというと助かっていない。ね、助かる道に縁を頂き、ここまでは助かっておるのであるけれども、ここまでは救われておるのだけれども、肝心の救われ方がしてない。神の綱、神様が、言わば、溺れておる者に対してこう、救いの綱をなげかけて下さったようなもの、「はぁこれで助かるぞ」と、「この信心によって私共は助かるんだ」とこう、その綱を手繰りよせて、言わば船べりにまで、船に手をかけておるようなところなのだけれども。
自分の身のめぐりの重さと言うか、着ておる着物の重さが、よう船に上がらんでおる。そこんところがなかなか難しい。神様も上げて下さろうとするんだけれど、私共もその上がろうとする、その二つの力を持って、その船に、その救い上げられ、助け上げられるところまでいかにゃいかんだけれど、船の上にまで、ここまでは助けて頂いておる、いわゆるここまでは救われておるのだけれども、それから先は救われてない。
いわゆる、救われておる助かっておるという事実に、まだお互いがそこまでおかげを受けていないということ。ね。ですから、助けられる者も助ける者も、これではいわゆる、残念至極なんである、ね、船辺に手をかけておるけれども、その手がきつなったら、そのずぶずぶずぶっとまた、元に戻って沈んで行かねば鳴らない様な事にまでなりかねない、もうここに、もう一つ渾身の力をふるって、その船にひれをかけ、のひれに手をかけておるのであるから。
それに上がろうと一生懸命勤め、上から神様が助けて下さろうとするその、二つの働きによって助かる。まぁそれより意味は全然違いますけれども、そのためにです、人を傷つけるな 人を殺すなと、ね、「形の上で人を傷つけたり、殺したりするのは、お上があってそれぞれのおしおきは合う、に合うのだけれど、心で傷つけたり、心で殺したりするのは、神が見ておる」とこういう。
そういう意味でこれは私自身のことなんですけれども、ずいぶん人に傷つけたり、人に、人を殺したりしてきとるなぁという事を思います、私の場合そこにその反面、まぁ日との傷を癒してやり、又は人を助けてやるという働きも、させて頂いて来たおかげで、まぁ例えばこう、今日まぁこう、許されおるような気がするんですけれども、これに私が人を傷つけない、人を殺さんですむようなおかげを頂いたら、いよいよ私はおかげ頂くだろうとこう自分で、昨日思うたことでございます、ね。
信心とは、自分を無くしてしまうことなんです、実は。ね、自分を空しゅうすることなんです、我情我欲を放れて真のお道を開けみよと、我情我欲を放れるという事は、自分というものを殺してしまうことです、ね、だから自分自身、自分を無くしよう、自分を殺そうと勤めることは、有り難いのだけれども、人から殺されたり傷つけられたり、したのでは、傷つけられた方も助からなければ、傷つける方も助からない。
それを私、今までは、もう例えば良し強引にでも、私、神様任せは先生任せと仰るのだから、私の言う様に、私任せに強引にして、助けたいとこう思うのだけれど、それが、あぁその、やはり抵抗を感ずるですね。「こうされちゃならん、傷つけられちゃならん」とこう、抵抗を感ずるところに、それが、私の助かりにもなっていなければ、皆の助かりにもなっていないと。まぁそれは難しいの事の様であるけれども、ここんところを是非お互いが体得して分からなければいけない。
先生から殺されるのじゃなくて、まず殺される前に自分を空しゅうして、例えば「もう親先生の仰る通りならもう抱き囲んでも、親先生任せになるぞ」とこう決めたら、もうあなたは、自分で自分を空しゅうしてしもうてるわけ、殺しておられるわけ、それを私が、誘導するとか、私任せにしていくということになれば、いわゆる私の頂いておるおかげは皆さんも受けられるという事になる。ね。
けれどもそれが泣き泣きであった場合なんかは、これは傷つけたことになるのであり、私がむごたらしゅう殺したことになるのですから、私も罪を問われるなら、殺された方も、本当なことじゃないということになる。まぁそれは大変難しいことでございましたがね。今日私が皆さんに、聞いてもらおうと思うのは、ね、先ず人もようなからなんけれども、自分がまず助からなければならない。
ためには夕べの御理解をちょっと引用しませんとですね、もう助かるこころまで、ね、救われるここ、ここまで救われておりながら、これから先に、完全な救われも助かりもないとするならば、これは神様は、私共も、こんなに残念なことはないということなんだ。ここにお互い渾身の力を持って、船の上に救い上げてもらう、助け上げてもらうところまで一つおかげを受けなければならない。
久富正義さんが、もう十何年前だったでしょうか、大変もう大変こう、あの人は命、自分の病気の上でおかげを受けた人であります。もう本当に、もうこの世の者じゃないような、あぁ時代、もう親子さん達も、まぁある意味合いではあきらめてあったと言う様な時代があったんです、そこを助けて頂いたわけなんです、ね。ですがある時からその、この「信士、紳士、神使」ということ頂いたんです、「信士」ということは皆さん、あの仏教で言うと、あのお位牌さんに書いてあるでしょ。
男の方が、亡くなった時には、何々信士とこう書いてある。お位牌さんに書いてあるあの「信士」なんです。それは死ぬるということ、だからお互い死にたくないから、次にはなら「紳士」のかけら、「紳士」っち言うの絵は、この英国の、英国紳士とかいうあぁいう風に言う紳士なんです、ね、いわゆる、紳士淑女とこう言うでしょ、そういう意味なんです。次には「神使」と神に使えるということ。
あれがいうその、甘木の初代の親先生あたりならお取り次ぎを頂いておったら正義さんなんかはもう完全に、取り次ぎ者になされておることでございましょうね。まぁこちらに私は力がないものですから、そんなまたそういう強引なる、強引さもこちらにないもん、ないですから。あれでおかげを、けれども、本当にもうほんとに信士にならないために、いわゆるお位牌さんに書いてある。
信士にならんためにも、紳士、紳士ということをいつも心にかけてらなければいけないぞとこう、私まぁ言う、自分もそれを感じておることだろうと。お月次祭の時に、ここで、私の代わりにお取り次ぎをしておる人が、あれは正義さん、久富さんなんですけども、あれなんかはまあ一時的、ちょっとそん時だけではあるけれども、先生の手代わり、神様の手代わり、金光大神の手代わりを、まぁしておられるわけなんです。あれは神に仕えておられるわけなんです。
それでなら日常生活の上におきましてもです、なら今、久富建設という、建設屋の社長として、まぁ治まっておられるんですけれども、その言わばお仕事ぶりというものはです、誰彼とここが儲けさえすればよいと、言う様な事ではなくて、どこまでも紳士的な、いわゆる商売、事業をしなければならないということを、いつも頭に、念頭においとるわけなんです、だろうと思うのです。ね、なるほど他の業者の方達の信用もあるし、で皆の信用もやっぱあるところを見ると、紳士の、紳士としての、ね。
いわゆる紳士淑女としてのことに、信心さして頂いておるならこげなことであっちゃならんと言う様な事を、いつも心に掛けておるような、ことではなかろうかとこう思うのです。最近、最近に(?)は言えないけれども、よくお道の新聞に言いますと、「信奉者全員取り次ぎ者」と言う様な言葉が使われておりますですね、取り次ぎ者というのは、教師先生だけのことではないと、お道の信心を頂いておるその信奉者全部が、取り次ぎ者にならなければならない。
そういう自覚に立たなければならない、と言う様な事なんです、ね。確かにそうだとこう思うです、自分の受けたことを、そして、間違いなくそれを人に伝えて行く、しかも実意丁寧に伝えて行くと、それが神へのお礼と仰るのでございますから、やはりそういう意味での取り次ぎ、だから受けることを間違いなく受けなければ、間違うた事を伝えることになる。ね、間違いなく自分が受けさせてもらい、って間違いなくそれを人に伝えて行く、果してお互いがどの程度に伝えさせて頂いておるだろうかと。
自分のおかげを受けたことを、ね、その本当に人へ、それを実意丁寧に神様へ、人に伝えていくという働きが、取り次ぎ、取り次がして頂くということになる。それが、神様へのお礼とおっしゃるのでございますから、お互いが、人より我がなお良けれというおかげを頂かなければなりません。ね、けれども人よりも、我がなお良けれという、私がおかげを頂く、私が助かるということは、ね、私自身の、一人のための助かりであってはならないということ。
それは多くの人へ伝えていけることのために、助かるというのでなからなければならないということ。自分が言わば金満、家的なおかげを頂かなければならんが、自分一人が金満家的なおかげを頂かなければならんが、自分ひとりが金持ちになるというのではなくてです、世の中の難儀な人達が沢山助かれれる事の為にです、大きな事業なら事業でも思い立たせて頂いたら、世の中の多くの人が助かる事になるのです。ね。
そういうことのために、儲け出しもしなければならん、金満家にならなければならんと言う様な意味なんです。ためにまずどうでも、自分が助からなければならない。ね、人より先に、先にまず自分自身が、助からなければならない。しかも助かりの道に、言わば、ここまで、ここまでは助かっておりながら、ここまでは救われておりながら、本当の助かりを見ないというところにです、私共がもう一踏ん切り、しなければならないようなことがないかと。
私昨夜、御祈念の後に、昨日美登里会の、今年の初回が、新年宴会なんかもありまして、大変にぎやかに出来ましたんです。その後に、いつもなんですかね、波多野さんのアイデアで、一人一人にこの神様にお願いをなさってから、こうあぶり出しになっておるです。それに色んな、その文句が書いてあるのを銘々引きあてて、本当に毎年のことですけれども、神乍らに神様が、あぁお互いの信心生活とか、又は今年の信心の、あり方と言った様なものに対して、ヒントを与えて下さる。
それを皆さんが非常に有難られる、また有難い事なんです。それを私2,3、原さんから聞かせて頂いたんですけど、その中にあの高芝さんは、「伊勢えびを」と書いてあるのを引き当てられたということを聞きました。はぁ成程そうだなぁとこう思うたんです。伊勢えびといやぁもうえびの中でももう最高のものでしょう。けれどもこの伊勢えびのお知らせはね、もう最高の窮屈な修行をしておるという時なんです。
どうでしょうね、そういう最高な修行をさせて頂きながら、ね、このその修行がいついつまでも続いておったとするならば、いつまでも伊勢えびの、窮屈な修行をしておったとするならば、ね、いわゆるここまでは助かっておりながら、ここまでは神様もこういう尊い修行を与えておられるのであるから、「これによって尊い有り難いおかげを受けてくれよ、徳を受けてくれよ」と言うておられるのに、おかげもお徳も受け、受けられないとするならば、船の幣に手をかけておるだけであり。
これはいつまでも持てんから、またズブズブっと入って行かなければ、ならないような結果になりかねないと。ね、伊勢えびというのは、あれはもちろん、伊勢の近海でとれるから言うでしょうけれどもね、あのあれが死んでしもうとったら値打ちがない。魚屋の店頭に出されても、やっぱりゴソゴソ、この這い出すくらいなものでなからなければ値打ちがない。ためにです、いわゆる海からとってすぐそれを、市場に出すということは致しませんそうです。
あれは、生き絞めるということを必ずする、伊勢えびが取られますとね、それを窮屈な箱の中に、全部詰め込んでしまう、そして荒波の中、荒波のその中に投げ込んでおく。それを、十五日も二十日もほうからかしておきますとです、中でも窮屈なその中で、十五日間稽古が出けておるもんですから、それを荷造りして、その市場に出す時でももう、なれておると。
いわゆる生き絞められておるから、生き絞められておるから、魚屋、言うなら一方、なら伊勢から九州あたりまでも送ってくる時には、もう魚屋の店頭で死んでしもうとると言った様な事のないために、生き絞めるそうです。そういう意味合いでです、伊勢えびというのは、あの窮屈な尊い、言わば、生き絞められとるというお知らせなのです。ね、だから生き絞められておる時にです、いようちゅうな、持ち続けれるだけの、ものを体得していなかったら、何にもならんことでしょうが。
今こそこういう窮屈ことをしっ、ならおかげを頂いておりますが、これが楽になったからというて、急にです、又まぁ分かりやすく言うならです、今ならこのお金に、不自由いたしておりますけれども、神様の自由が与えて下さる。何故神様がならお金ならお金に、窮屈な思いをさせておられるかと、生き絞めておられるのです。その生き絞めておられる神様の辛いけど、生き絞めておられる方も辛いのだけれどもです、ね。
それは、ね、例えばいうなら、この次に沢山のお金を、自由を許される時が、来るだろうと、その時にです、それが人の助かる事のために使われる、自分がもし助かることのために神様が、しかもその助かりというものがです、それは自分の栄耀栄華のために、おかげば見たらもうそれこそ、さぁあれも買おうこれも買おうと、自分の身の贅沢のために使うのではなくて、人を取り次ぎ助けられることのために、使われるようなおかげを頂かせて下さるために、今の生き絞めがあるということ。
そこの、言わば性根が、高芝の一家の上に、出来た時に、神様は次の自由なお金のところに出して下さるだろう、窮屈な伊勢えびの修行から開放されろだろう。けれどもその時には、人の助かることのためにそれが行使される、神様の喜んで頂くことのために、行使される、あんた達が贅沢をするために下さるのじゃない。私共が贅沢をするために下さるのじゃないということをです、もう金輪際ここで分からなければ、体得しなければ、いつまで経っても、神様は下さらないという事になればです。
とてもこれは、私だんいくら信心したっちゃおかげを頂ききらんよと、言う様な事になって、またズブズブとっこう、船の縁のところまでは救われ助かっておりながら、助かられないと言う様な事に、なりかねないということ。ね、高芝さんだけのことではない、そこのところまで頂いておられる。秋山さんが、あの「松風」と書いてあった、ね、松風なんか、松風というこれはもう、桂先生がもう直接に、秋山かずえさんその人に、修行ば求めておられるという気がいたします。
もう正月早々から、言わば大修行しておられる、ね、足にやけどをしておられる、湯がかかって、大変おかげ頂いておられるけれども、そこの、それに松風と悟る、ね、「どうしてこげな運の悪い風が吹いてきたじゃろうか」と、「どうして私は、こげなん正月早々難儀しなんければならんだろうか。」と言うのじゃなくて、それを秋山さんが松風として受けておられるところにです、なるほど松風を引き当てなさった筈だというものを、感じるのです。ね。
その時にその事が、めぐりのお取り払いとして頂けれる為に、その事を有り難く頂けておられるということ、ならおかげも順調に大変痛みもせずに、昨日なんかはここにこらせて頂いた途端に、座る事が出来る様になったと、言う様なおかげを受けておられます。ね、それを本当にこの松風として受けられる信心、ね、神様がさして下さる本当に、尊い伊勢えびの修行を、今高芝一家の上に求めておいでおられるのだから、何の為にこういう窮屈な修行を、しかもこれは最高と仰る最高の修行を、求め給うかと。
この際、お母さん分からにゃいかんところがあるぞ、お父さんここだけは一つもう、踏ん切りをつけて改まらせて頂こう。そしてその次に頂いたそのおかげを十二分にです、神様の御用に使うて頂けれる、又は人が取り次ぎ助けられることの為に、それが行使されることにしか使わんぞと、これは金銭の事だけじゃありませんけれども、金銭の事で言うたが、分かり良いからそういうわけなんですけれど。
その頂いたおかげを助かりを、その信心をです、人に伝えていく、間違いなく伝えていく、そこに私は、「神になるぞ」と言う様な、徳も受けられる。また「神へのお礼ぞ」ということの信心も出来るわけになるのです。そういうためにです、私共がもう、本当に、様々な修行も松風として受けられる、伊勢えびの修行として受けられる。それを、私は、皆さんが身に付けていかれるために、ここにもう一踏ん張りの信心が、望まれる時じゃなかろうかという風に思います。
自分の良いよいがをするために、自分の身の上の、贅沢をするために、助けて頂くのではなくて、ね、どこまでも、例えて今日は、十三日会でございますけれども、神様の願いに応える事の為に、自分が助からなければならんというものがです、ね、出来なければいけません。ところがこれはまぁ一般の通有性でありましてね、「のどをも通れば熱さ忘れる」で、少し楽になると、すぐもう家が美しゅうなる、ね。すぐお金が少し入りますと、もう、買わんでよかもんまで買うごとなる。
使わんでよかもんまで使うごとなる、食べもんから贅沢になる。これでは言わば、そう言う様な事なら、人に伝えていけれることもない。言わば、人にそれを取り次がせて頂くことは出けんのです。ですから、本当にその尊い修行をさせて頂いておるところに、もう一踏ん切りの修行をさせて頂いて、完全な助かり、救われということにならなければいけません、神様が助けたい、私共が助かりたい、両者がそれを願って、おるにも係らず、とうとう助けられんで一生を終わったと言う様な、人も沢山私はあろうと思う、そういう事に終わってはならんのでございますから。
おかげ頂いていきましょう。